埼玉県白岡町周辺を探索してくブログ。
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埼玉県白岡町はココ
白岡町について

昭和29年に日勝村・篠津村と大山村の一部が合併し白岡町が誕生。

・面積/24.88平方キロメートル
・人 口/49,346人
・世帯数/17,298世帯
    (平成19年2月現在)

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プロフィール
埼玉県白岡町に住み始めて数年経ちますが、自分の住んでいる町についてあまり知らないことに気づき、白岡をもっと知っていこうとブログを始めました。 これから色んな情報を集めていきたいと思います。
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<円空、そして新井白石の統治>

・白岡町の歴史-原始
・白岡町の歴史-白岡町の歴史-古代~中世

戦乱の世も終焉を告げ、江戸時代になると白岡の歴史にも心あたたまる記憶が増えてきます。その中で2つの事蹟を紹介します。

江戸時代初期に生まれ、諸国を行脚しながら仏像を彫り続けた円空上人。その生涯に12万体もの仏像を彫ったといわれ、スギやヒノキを鉈(なた)で断ち割 り、鑿(のみ)で仕上げていく″鉈彫り″という刀法で、こぼれあふれるような慈悲深い微笑みを抱いた仏像(円空仏)を各地に残したことで有名です。
円空仏
↑円空仏像
円空が各地に残した円空仏が現存しており、町内に残されています。西の杉崎家では「旅の坊さまが泊めてもらったお礼に残された」と言い伝えられています。いずれも、手の平にのる仏像ですが、その素朴な仏像からは円空の心の温かさが伝わってきます。

時代は更に下り、江戸時代中期、六代将軍家宣の政治顧問となり、さまざまな政治改革を行った新井白石。
世に「正徳の治」といわれ善政の手本とされる政治を指導した人物です。
その新井白石は宝永6年(1709)に野牛村500石の領主となりました。白石の民政は、権力で領民を支配するものではなく、道徳的な教えを説いて治めたといいます。
白石堀
↑白石堀
また、水利が悪く洪水に悩まされ良好な農地ではなかった野牛村に、排水を良くする水路を掘り、収穫を向上させたとも言われています。 「白石堀」、「殿様堀」と呼ばれた水路は、現在も野牛に残っています。
参考文献:『白岡町勢要覧』(白岡町発行)

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<武蔵国の武士・鬼窪氏と白岡八幡宮>

・白岡町の歴史-原始→こちら

平安時代の半ばになると、律令体制がゆるみ地方の治安も乱れ始めました。記録によると、当時の関東では悪者が徒党を組んで横行し、盗賊が山野を駆け巡るという状態だったということです。

この頃、平高望(高望王)は、上総介として関東東部に任官しましたが、その後の帰京命令を聞かず、一帯に根をおろし勢力を拡大させました。その後、平高望の子孫たちは、坂東の名門として「坂東八平氏」と呼ばれ根強い勢力を誇りました。将門の乱で有名な平将門は、平高望の孫に当たります。

大きな勢力を築いた武士団に「武蔵七党」と呼ばれる勢力があります。「武蔵七党」は武蔵国(現在の埼玉県・東京都と神奈川県東部)を勢力範囲としていました。この中の野与党は現在の白岡付近を本拠にしていたといわれています。現在も篠津に残る「野与道」と呼ばれる古道は、それを物語るものといえましょう。

野与党の中で最も有力な武士は鬼窪氏といい、鬼窪郷(現在の実ヶ谷、小久喜、白岡付近)に住んでいたといいます。
白岡八幡宮
↑白岡八幡宮
鬼窪氏は、鎌倉幕府創設後に源頼朝の命により、奉行となって白岡八幡宮の社殿を造立したともいわれています。

参考文献:『白岡町勢要覧』(白岡町発行)

節分の記事にも書きましたが→
興善寺 豆まきまつり
豆をまく時の掛け声で、
鬼窪氏に気を使って鬼は『外』ではなく、鬼は『ご随意!』という当時の風習が今でも残っていて感慨深いものがあります。

<白岡八幡宮地図>
白岡八幡宮

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<まぼろしの縄文の街>

白岡の地にはじめて人類の足跡が記されたのは今からおよそ20,000年ほど前、旧石器時代の終わり近く、地球がまだ氷河に覆われていた頃までさかのぼります。彼らが携えていた石の道具が、白岡の入耕地遺跡(大字白岡)や山遺跡、タタラ山遺跡(大字白岡)などで見つかっていることからわかります。
現在までに確認されている白岡最古の家の跡は、岡泉の本田下遺跡から見つかったおよそ7,000年前の縄文時代早期後半のものです。
土器・土偶
↑土器と土偶
今から、約6,000年ほど前の縄文時代前期になると、白岡にはいくつものムラが作られるようになります。白岡のタタラ山遺跡からは、40軒にのぼる家の跡が見つかり、たくさんの土器や石器とともに30数点の耳飾りやペンダントが出土しています。
40軒という家の数といい、30数点という装飾品の数といい、同じ時期の遺跡としては飛びぬけて多いものです。また、装飾品類は、瑪瑙(めのう)や滑石(かっせき)など、白岡では手に入れることのできない石で作られていることから、タタラ山遺跡はこの地域の拠点となる大きなムラで、祭祀や交易の舞台として繁栄していたのではないかと想像されます。

ペンダント
↑耳飾りとペンダント(タタラ山遺跡)
今日のように、鉄道や幹線道路が町域を縦貫し、にぎやかな町並みが形作られる遥か以前、白岡の地にまぼろしの縄文の街が存在したかもしれないのです。
参考文献:『白岡町勢要覧』(白岡町発行)

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